

宇宙論☆講座より
2026年/新春のご挨拶

お待たせしました!
お待たせしすぎたと言ったらそれは言い過ぎかもしれません。
あの夏の狂騒、生ビールミュージカル追加公演から早6ヶ月経ってしまいましたが、皆様お元気ですか🍺
(生ビールミュージカルをご存知ない方はこちら)
演劇団体の《公演ペースが落ちる10の定番パターン》
その1「主宰が多忙になり~」
を乗り越え、代表の五十部(いそべ)にヒマができました。
こうして新春に、新作公演のお知らせができる晴れがましさ。
今回は豪華2本立てです。
1本は、桃太郎をやります。かねてからやりたかった古典です。
桃太郎一行が鬼ヶ島に渡るシーンのみを抜粋して上演します。
もう1本は、かき氷のミュージカルです。
お客さんにかき氷を食べてもらいながら上演します。
例年「年末公演」を催しがちな宇宙論☆講座ですが、ルーティン化を忌避した結果の、本年は「新春公演」にチャレンジです🎍
2025の年の瀬に「やるぞ!」つって各所に連絡して企画書作って、出演者やスタッフの皆さんを口説いて、空いてる劇場を押さえ、チラシ刷って、2026の元日に特設サイト(これ)の公開ができる。
まだまだ大いに小回りが利く規模の制作スタイルだからできることです。
ちなみに特に募集はしていないのですが、今年の出演作が決まってなくて、新年一発目なんか出たいという俳優さんいたら、その正月の酔っぱらった状態のままDMください(こちら)。1月下旬くらいまで。
演劇団体の成長過程のフェーズとして現在ギリギリ“出たいと言えば割と誰でも出れる期(青春期)”の終わり近くにいる宇宙論☆講座に出よう。
求めるものはフットワークの軽さです。
とはいえ、半年や1年先、数年先に控えた作品を周到に準備するタイプの公演も今年からやっていきます。
まさに団体としての過渡期にあるといえるでしょう。
そして特に今後も「主宰が多忙になり(スケジュールがとられ)、動きが鈍くなる」のパターンは、工夫で回避してまいりたいと思います。
そんな所存の2026年正月の宇宙論☆講座です。
代表・五十部裕明
サイト
更新履歴
更新履歴①
2026年1月1日11:20
サイト作成者/五十部
明けましておめでとうございます
元日早々、新作公演の特設サイトを見に来てくださってありがとうございます
このサイトは今まさに作成中です
今朝さきほど初詣を済ませてから作り始めました
今回は「日本一!」がキーワードなので、1 に因(ちな)んで、1月1日の11:11にこのサイトを公開したというわけです
まだ、なにもないです
URLを公開してから作り始めるという怖いことして作っています
URL貼り付けてSNSにポストした時点で(さっき。10分前くらい)まだこのサイトはこの文章すらないゼロの状態だったので、たまたまそれ見てすぐ来てくれた人は、先ほどここに、何もない「無」を見たと思います
更新履歴②
2026年1月1日11:30
サイト作成者/五十部
タイトルと日時と場所は載せました
もう大丈夫です
あとは企画書の内容をどんどんコピペしていき、
公演情報を過不足なくぜんぶ載せて、そののち見た目を整えます
サイト公開状態で編集してます
正月ヒマな方は、たまに覗きにきてください
まだぐちゃぐちゃですが、正月行事の合間にちょこちょこ作業して、三が日で完成します
公演の予約開始は1月13日(火)です
サイト内に予約フォームを置きます
どうぞよろしく🎍
更新履歴③
2026年1月1日23:00
サイト作成者/五十部
と言いつつ、あっという間に完成しそうです
毎回、公演のたび特設サイトを作っているので、作るのが早くなってしまいました
ぐちゃぐちゃを堪能したかった人すいません(いない、そんな人は)
とはいえ、まだデザインがださいので、きれいにしていきます
ものを作るとき、その作ってる時間のうち「生み出してる時間」というのはわずかであり、
作業のほとんどを費やしているのは、その生み出したものから「だささを取り除く作業」だったりします
共感してもらえる人にはしてもらえると思うのですが、
作る力のある人にとって「作る(生み出す)」というのは割とすぐ、あっという間にできてしまうことであって、
その作った(生み出した)ものから、いかにだささを取り除くか、
その、だささの取り除きかた、そこにセンスが表れるのです
ただし、どんなにがんばっても実質的に100%全部取り除くことはできないですし、たとえ100%取り除けたと思っても、時とともに作り手本人の感性さえ変化していくことを考えたら、世の中に時空を超えて完全な作品なんて存在しないわけです
なので、なるべく95%くらいまでは取り除いていこうというつもりで、取り除いていくのです
更新履歴④
2026年1月2日9:00
サイト作成者/五十部
だいたいできました
だいたいできたので、お雑煮をいただく前に、一個前に書いたことの続きを書きます
なんかブログか note みたいになってきたが、これはサイト更新履歴です
(そういえば去年 note 開設したけどいきなりパスワード忘れた。まだ1記事も書いてないのに。
パスワード思い出して今年いろいろ書きます。そんな宇宙論☆講座の note はこちら)
たとえば音楽とか演劇を作る例でいうと、譜面とか台本を書くのはパッと書いてしまって(書けてしまって)、
しかしそれを生み出した当人が今度は鑑賞者としてそれを見た(聴いた、読んだ)ときに、そこにはださい(本人の中で許せない)部分がある
それは、本人としても一回客観視のプロセスを挟まないと気づけない自分の中のだささだったり、アウトプットの作業の過程で混じってしまった外的要因によるだささだったりもする
それを本人が、本人のセンスで取り除いていくわけです
そしてその取り除きかたに作家のセンスが全部出ます
つまり、なにが許せて(良くて)なにが許せない(良くない)のか、その作家にとっての審美がすべて出てしまう
作品を作ることは怖いことだと言われるゆえんです
そうして、センスの良さ(または良くなさ)によって推敲されたりブラッシュアップされた作品が完成します
結果、センスのある人の作品にはセンスがあり(だささを取り除くことに成功しており)、センスのない人の作品にはセンスがない(だささの取り除きかたがださい)、という当たり前のことが起こる
そこまで完了して、作る(作った)ということになるわけなので、「生み出す」と「だささを取り除く」は1セットなのですが、分けて考えるとそういうことになります
ミュージカルのための楽譜や台本を書くにしても、こうしたサイトをデザインするにしても、年賀LINEでふざけた画像を友人知人に送るにしても、労力や時間を数値化したらおれの場合、生み出す作業5%、だささを取り除く作業95%くらいです
なので、人の作品を見て「あれ~あの人すごくセンスがあるはずなのに、今回の作品ぜんぜんよくないな~(ということは全然ある。その逆はない)」となった場合それは、なにかの要因があって(環境やその人自身のコンディションがよくなかったり条件や時間が足りなかったりして)だささを取り除ききれなかったのだ、おれはそう思っています
そして、そういう作品ほど、センスはまずいけど作家性はむしろ、なんも見た目を整えてない分、よく現れていたりもする気がします
「作家本人のセンス」というノミと木槌で彫刻していく前の、「作家性まんま」というごつい木塊のままだからです
いまこのサイトは、その状態です
更新履歴⑤
2026年1月2日9:30
サイト作成者/五十部
SEO(検索エンジン最適化)対策もした
無料サイト作成サービスなので、できることは限られているが、できることはする
こういうところで差がつく(なんの差かわからないけど)のだ
ところで、このサイトにはWixの広告がついている
Wixというのは無料サイト作成サービスの名前だ
「このウェブサイトはWixで作成されました。あなたも作成してみませんか?」という部分です
これをクリックするとあなたも現在のおれと同じように、正月1日からウェブサイトを作り始める羽目になるので、
作りたい人だけクリックしてください
この広告は、課金すれば消せる
広告を消すための有料プランは月額1300円程度なので、これから公演終了までの2ヶ月間、つまりこのサイトが特に機能するべき全期間合わせて(公演終了後もアーカイブとしてこのサイトは残すつもりだけれど、そこではもうほぼ閲覧はないものとして)2600円ほど払えば広告は消せるのだ
しかし消さない
そこに予算を使う宇宙論☆講座ではない
迷いなく「広告は消さない」
試算してみよう
おれの考えだとこういう計算になる
例えば公演トータルで500人の来場があったとして、この2600円を500(人)で割ると約5円だ
つまり、来てくれた人たちから頂戴した料金(公演収入)のうち1人あたり5円分を、このサイトの広告を消すために使う(公演支出)ことになる
赤字は出さないポリシーなので、もし広告を消すという判断をするならば元よりそれは予算に計上してあらかじめ料金を5円上げている
5円といえばお賽銭だ
多くの人にとって、予約をしたり場所や内容を確認するためにちょっと見るだけのこのサイトに「広告が出ないこと」と「お賽銭1参拝分(もっと入れる人はのぞく)」のバランス
考えるべきはここだ
そして公演予算の使い方もセンスだ
規模が大きくなかったり、予算が少ない演劇公演の場合、こういうサイトを無料サービスで作ってる場合も多い
その場合、Wix とか Jimdo とかで作ってる人が多いと思う
チケット代の高い公演ほど、無料サイトではない傾向にあると感じる(当たり前だ)
チケット代が高くない(相対的な話)公演でも、ビジュアルが凝ってたり、なにか事前情報の見せ方に美学が感じられるようなものは、無料サイトでないことが多い傾向があると思う
おれも、これは宇宙論☆講座の公演の特設サイトだから、という条件があっての「広告は消さない」の判断ですが、前提が変われば即あっさり課金の決断もあるだろうし、そもそもその場合は自分で作らずWebデザイナーに1から依頼するだろう
こういうサービスを使って公演情報のページ作るのだったら、サイトに課金するのはチケット代が最低でも3000円を超えてからでいいと思う(バランスと、予算の使い方のセンスの話として)
逆に、チケット代が6000円以上する興行で広告つき無料サイト作成サービスだと、なんかやばい気もする
それがおれの広告つき無料サイト作成サービスに対する金銭感覚だ
サイトの更新履歴を書く場所になにを書いているんだ!おれは
更新履歴⑥
2026年1月3日1:00
サイト作成者/五十部
いま度を超えて酔っ払っている
正月だからだ
新年明けて(いや明ける前から)ここまで数十時間、場所を変え顔ぶれを変え、途切れなく飲み続けている
合間に、ふとエアポケット的に急に一人になった時間にパソコンを開けて、このサイトを作っている
酔っ払っていても誤字脱字はしない、日本大学芸術学部文芸学科卒の矜持だ
酒を飲みながら大事な作業をする愉悦というものはある
それは酒を飲むタイプの人ならみんな感じたことがあるだろうし、創作においてもときにそれは非常に有効とおれは思っているのだが、しかし酒は「仕上げ」の作業にだけは向かない
これは今までの人生で痛感してきたことだ
このサイトもあとは「仕上げ」を残すのみだ
いま作業しないほうがいいかもしれない
いまは全力で正月だけを享受するほうがいいのかもしれない
考えてみれば、今までパソコンを壊したのも、だいたい過度に酔っ払っているときだ
人生でパソコンを50台以上買い替えている
気づけば今年もすでに1台買っている(初売りで)
個人のパソコンをそんなに買ってる人いない
正月だからという口実と事実を前に、いま現在おれはものすうううううううううごく酔っ払っている
このサイトの編集画面を開きっぱなしにしておいたら、間違えて全部消してしまうおそれもある
それが酒のおそろしさだ
間違えて消してしまったサイトを思い出しながら再構築するという作業には、赤塚不二夫やコナン・ドイルが紛失されてしまった原稿を思い出しながら再執筆するみたいなドラマ性はない
なので避けたい
更新履歴⑦
2026年1月3日5:25
サイト作成者/五十部
かゆ・・・
うま・・・
更新履歴⑧
2026年1月3日12:00
サイト作成者/五十部
なんと、ここまでの作業が、サイトに反映されていなかった
保存してあるので全部残っているから大丈夫だが、
この3日間、ちょこちょこ編集するたびに「保存」はクリックしていたものの、「公開」をクリックしていなかったのだ
だから作業していた内容が、サイトに反映されていなかった
なので、元日の朝(元旦)に10分くらいでサッといじった、
「タイトルと公演日程くらいが、雑に載っているもの」
(サイト作成開始時のテンプレート文やテンプレート画像がしっちゃかめっちゃかに配置されながら)
だけが公開されている状態だった
更新履歴③で、ぐちゃぐちゃを堪能したかった人すいませんと律儀に謝っているおれだが、
ちゃんとぐちゃぐちゃの状態だった
結果的によかったのかもしれない
こういうのを正しく、酒の力と言います
更新履歴⑨
2026年1月3日12:10
サイト作成者/五十部
サイトが完成した
あとこまごまと、本番までの間なにかといじったり更新したりすると思うが、このサイトの一番大事な部分(公演情報)は過不足なく載っているはずだし、誤記もないはずだ
複数人でチェックもした
あとは予約受付開始日になったら予約フォームが開くはずなので、
それを予約受付開始日になった瞬間に確認する、という大事な作業もあるにはある
それと「???」というページを、終演後に更新するというのが残っている
「???」というページはなにかというと、これは終演後のスペシャルコンテンツだ
というかアフタートークだ
この「???」というページにはアフタートーク動画がリンクされるようになっている
演劇のアフタートークというと、終わったあとの舞台上に演出家とゲストがラベル剥いたペットボトルの水とパイプ椅子を持って現れて探り合いから始めて15~20分程度喋るやつだが、ときに余韻の邪魔になる場合もあるし、良いトークになったとて時間が食い足りないことは多いし、とはいえおれもアフタートーク聴くのは大好きだしアフタートークのある公演を観に行くときは絶対にアフタートーク回に行きたいタイプなのだが、しかし、ゲストの集客力とか公演の盛り上げのためのイベント性みたいなものを別にすれば、後日に落ち着いてお呼びしたいゲストをゆっくり呼んでじっくり1~2時間喋って動画収録してユーチューブとかで公開するのが一番いい形だったりするのではないかとおれは今のところ思っている
それを載せます
更新履歴⑩
2026年1月3日12:45
サイト作成者/五十部
5つくらい上のところで書いた、創作とか、ださい/ださくない、についての話をもっと書きたくなって(自分の中で考えをまとめたくなって)、いま書いています
新春という時候は人をそういう気持ちにさせる
それは note に載せたいけどパスワード忘れたので、いったんここに載せます
ここに載っけて、パスワード思い出したのち note に転載します
note 用に書いてるので次の更新は急に文体が違うことになる
もはやサイト更新履歴ではない、おれの書き初めだ
更新履歴⑪
2026年1月3日13:20
サイト作成者/五十部
作品をつくる作業って、「だささを消す作業」がそのメイン作業だと思っている。
作りたくて作ったものや、うっかり生まれてしまったものや、なにかの結果たまたま生み出されたものなど、作品にはいろんな成り立ちがあるけど、作品それ自体はあっという間に、粘土を手に持って床に叩きつけました!みたいな速度で形づくられる。
そういう場合が多いと思う。おれの場合はそうだ。
創作作業にかかる実時間の話ではない。
作品て基本的にはポン!と生まれるよねという話だ。
ポン!とは生まれない人もいるのは知っているが、それはひとまず措く。
そして、ポン!と生まれたその作品には、沢山の「だささ」がある。
能力がある人の作品も、技術がある人の作品も、そのポン!と生まれた段階では沢山の「だささ」がある。床に叩きつけた粘土だからだ。
それは、それ自体もうしっかりと作家性が表れきった(作家性というのは、なんであれその作家が作ったらどんな作り方であっても十全に表れるし表れてしまうものだ。生み出す速度は関係ない)「作品」ではあるのだが、それをまだ作品と呼びたくない人にとっては「作品の原型」とか、着想とか下書きとか初稿の前の草稿とか、そういう言い表しかたのものになる。
それを実用したり公開したりする場合、そこから「だささを消す作業」が始まる。
センスや、技術や、試行錯誤や、経験値から導かれる解決や、人のアドバイスや、運や、時間や、ひらめきや天啓など、いろいろな力を使って、それらの「だささ」をリストアップしたりまたは手当たりしだいに排除していくという作業が始まる。始まらないこともある。あえて「だささ」を残すというやり方もあるかもしれない。「だささ」を排除しきれないと判断してこの時点で作品ごとすぐ捨てる場合もあるだろう。「だささ」の消し方が分からなくて途方にくれるケースもあるはずだ。他人の作品に触れる量が機会や少なかったりして、自分の作品に組みついている「だささ」の部分にそもそも気づけないこともある。自分が作る作品に求めるものが自分の中であいまいだったりして、作品にとっての「だささ」がなんなのか迷う場合もあると思う。あとセンスが良くなかったり、技術が拙かったりする場合「だささ」を消そうとして消せなかったり、消しかたが分からなかったり、消し方がへたで(掃除と片づけをしようとして家を引っ掻き回して余計ひどくなる感じで)むしろ「だささ」が際立ってしまうこともある。
ところで、この話が全然入ってこない人もいると思う。
それは、作品をつくる作業の(それは、部屋のインテリアの配置を考えるとか、仕事の書類を作るとか、自分自身の朝ごはんを用意するとか、なんでもそうだ)そのやり方がたぶん、おれとまったく違う人だ。
その人の場合は、この話は諦めてほしい。
どうあれ、とにかくテトリスの終盤みたいな感じで手を変え品を変えあれこれやって、そこここでいろんな状態になって有る「だささ」をザクザク消すわけだ。
うまく消せる場合も消せない場合もある(だささがこんがらがって「詰む」場合もある)だろうし、すぐ消せる場合と時間かかる場合とあるだろうけど、この「だささを消す作業」が作品をつくる作業にとってのメイン作業だと思っている。おれの場合はそうで、創作の全作業のうち95%はこれだ。
演劇を作る場合は、そもそもこれが一切の個人作業でなくなるのと、みんなで「だささ」のコンセンサスをどう取るかの方法論とか、一気にややこしく難しくなる。
「だささ」の実際の消しかただが、効率がいいのはたぶん、技術を使って消す方法だ。これが一番簡単でラクだ。創作するとき創作者は必ず大変な思いをしなければいけないということはないので、簡単でラクな方法があればそれに越したことはない。特に、音楽を作るときはおれは基本これ(技術)ばかり使う。それができるようにするため、演奏術や理論や機材の使いこなしや知識や経験値を身につけることに人生の時間や金銭をたくさん費やしてきた。
あと、センスと運の良さも大事だ。叩きつけた粘土がちょうどいい形になっていて、排除すべき「だささ」の含有量が元々すごく少ない場合がある。
話がまだ観念的すぎるかもしれない。
もうちょっと具体的に、「台本を書く」ということで考えてみたい。
要は、まず原稿用紙を広げて台本をグイーッ!と終わりまで一筆書きのように書いてしまってから、ださいマスを塗りつぶす(見えなくする)作業に力を入れる。ということだ。
書いてるうちに、これは結局「初稿は勢いでバババッと作って、二稿三稿…五稿十稿と改稿をたくさん重ねる。つまりブラッシュアップメインの創作方法」ということなのかとも思えてきたが、それはちょっと違う。
作品自体は最初に、発想や力によって叩きつけた粘土(作家性の表れ。その塊)によってもうできていて(完成といえば完成はしていて)、ただ、それが見た目の「だささ」にまみれているとすごく見づらいし、見ていて気持ちよいものでもないから、その「だささ」の成分だけうまいこと隠して見えないようにしましょう、センスや工夫や技術によって。という感じのものだ。
だから、推敲する、というのとはちょっと違う。
推敲とかブラッシュアップというのは作品をよりよくするための作業だけど、それは、いらない部分を削除する作業であるとともに、作品にとって足りなかったものや、新しく思いついたり生まれたものなど、よりよいものをプラスする付け足しの作業や、また編集の作業だ。そこには、部分または全体の作り直しも含まれる。
そうでなく、最初に叩きつけた粘土の中に作品の全部があり、そこからただ「だささ」を消していく作業。いや消すというより厳密には、隠すという感じだ。
別にその「だささ」の成分はあってよくて、ただ、あるといろいろ邪魔なので、無いことにする(隠す。見えなくする)ということだ。向きを変えれば光の当たり具合で見えなくなったりもする。
これが書きたい、これがやりたい、こういう作品にしたい、みたいなものがすでに強烈に具体的な熱量を持って自分の中に存在している場合はこのやり方が一番いいだろうし、自然このやり方になると思う。
このタイプの場合、だささを見えなくするための体力や条件や時間が最終的に足りなくなったとき悲惨な作品(目に見えるだささがたっぷり残った、ださい作品)になる。
逆に、自分の思考や感性から発想される言葉とかアイディアや方法などのひとつひとつを丁寧にチェックしながら、できるだけ、目に見えるそもそもの「だささ」が作品に持ち込まれないように注意を払って作っていくタイプの人もいると思う。
自分の中のアウトプットの最終段に「だささ」を濾すための強力なフィルターを置いて「同時にブラッシュアップをしながら作っている」ような感じだ。最初の、粘土を叩きつける段階で、粘土の叩きつけかたをいろいろシミュレーションしたりもする。元より全体や完成図が見えているわけではなくて、頭や手を動かしてるうちに自分の作るべきものの内容が定まってくるということもある。そういう作り手だ。水出しでドリップする感じなので、作品そのものが現出するまでには時間はかかる。
このタイプの場合だと、完結するための体力や条件や時間が最終的に足りなくなったとき、ださくないけど未完の作品ができる(つまり、作品はできない)。ということになる。
上記の2タイプがいるんだと思っている。完成が最初の人と、完成が最後の人。
あともう1タイプ、改稿を重ねてだんだんに完成させていく人。
他人の脳みそは覗けないから予想だけど、人の創作の様子を見ていてそう思う。「だささを消す作業」込みで脳みその内でぜんぶ完成していてそれを手動で自動出力するだけという人もいるのだけど(イメージとしてのモーツァルト的人間)、それは上記2タイプのどちらかを頭の中で高速でやり終える特殊能力を有しているだけで、しくみは同じだと考える。
あと、人の作品の「だささ(または、ださくなさ)」についても、その判断に時間がかかるものとかからないものと、判断が難しいものとそうでないものがある。
ある人にとってはださいけど、ある人にとってはださくないというようなこともいくらでもある。当たり前だ。
あくまで自分の中の「だささ(または、ださくなさ)」の基準がしっかりはっきり細かくあることが大事なはずで、それがなかったり、まるでアバウトだったりすると特にださくなってしまうのだと思う。
おれの場合、音楽だったら(録音物だったら特に)聴いてすぐ自分のセンスに照らして自分の中での「ださい」「ださくない」「ださくない寄りのださい」「条件つきのださくない」など、あくまで自分基準で即断できる。
演劇だと時間がかかる。人間が人間の体を介して人間の表現をしているわけだから、この人はどういう人なの?という問いと一緒で、いきなり確信はできない。演劇に関する、台本でも、演技でも、演出でも、公演のプロデュースのしかたでも、観てすぐには「ださい」「ださくない」の判断がつかないし、わからない。「ださい感じがする」「センスある感じがする」「なんであれこれはすごく、すばらしいと思う」などと直感することもあるが、よく観てよく考えないと判断がつかない。1本まるまる観終わっても分からなかったりする。ただテクニカルに関しては、音響でも照明でもテクニカルそれだけを抜き出して観たらそれは見た瞬間「うわ!ださい照明」とか「センスのある音響」と確信できるものはある。それは最終出力が人間でなく機材であり、あくまでそこだけ抜きだしたらテクニカルだからだ。
おれの演劇(他人の作る)に対する「だささ(または、ださくなさ)」の判断の速度はそんな感じだ。
もちろん、それを必ず判断しなければいけないというわけでもないのだが、ごはん屋さんでごはん食べて「うまかった!」「まずかった…」と思うように、やはり演劇を観たら「良かった!」「悪かった…」とか「かっこよかった!」「ださかった…」と、作品全体または作品を構成するさまざまな要素に対して想いが巡るのが普通だと思う。
しかし、ごはん屋さんの場合は食べ終えて店を出るタイミングまでで自分の中の評価は普通つくし、そのタイミングでつかなかった場合はもう永遠にその店の評価は自分の中でつかないのだが、演劇の場合は観終えて劇場を出るタイミングでそれが確信持って自分の中で定まっていることのほうが稀かもしれない。
特にやっぱり、俳優さんの演技が一番時間かかる。人間が自分の体を介して、自分自身とセンスと技術と経験などを使って、運やひらめきなどもおそらくたくさん使って表現しているものが、演技だからだ。
そしてもちろん、「ださい」と「ださくない」の間にいろんなバリエーションのグラデーションもある。
ここまで「ださい」という言い方をしているが、もうちょっと厳密に「ださい」を言い換えるならば、「作品にとって邪魔な成分」「自分の美意識に照らして許せない部分」「悪くはないんだけど削ぎ落として見せたたほうが(無いことにしたほうが)ソリッドになる箇所」「音楽だったら禁則をわざと犯すみたいな意図や判断によるわけでなくただ理論的に間違っている(音楽理論というものは過去の音楽家やリスナー全体の集合知だ)音像」とかだ。他にもいろいろある。そしてこれは、どれだけ徹底的に消しても(見えないように隠しても)絶対にゼロになることはない。
演劇は特段、だささの消し方の難易度が高いはずだ。
音楽(特に録音物としての)を作るとか、動画を編集するとかの場合、ひたすら追い込んで努力と時間と技術とひらめきを注ぎ込むと、作品の(少なくとも作ってる自分の中での)「だささ」は、うまくやれば残り5%くらいまで減らせることもあると思う。その後自分のセンスがアップデートされたりダウングレードされたり時を経て自分自身の感性の変化とともに作品と対峙すれば「だささ」がまた10%とか20%とか増殖している可能性もあるが、いったんは5%くらいまでは減らせる余地がある(それでも0%は無理だと思う。それは「完璧な作品」というものがあると思っている人の脳内にしかない)。
自分で作った演劇を(映像記録でなく生で)自分で観劇する、という経験をしたことのある人って、すごく少ないはずだ。
それは、本番が始まってしまえば通常の観客と同じだけしか作品に作用できない状態で、作品を作る力を有しない状態で観るということだ。
まず俳優は、そうとうな画期的な工夫か仕掛けか頓知(とんち)を生み出さない限りそれはできない。自分の出てないシーンを袖や楽屋のモニターから見るのは観劇ではない。
照明家や音響家も違う。機器をオペレートしながら見るのは作品を観ているわけではない。それは観ているというより作っている状態だ。
だから、(公演という作品を作ったという意味で)プロデューサーとか、自分が出演者を兼ねたりしないタイプの劇作家や演出家、またはオペレーターに託した音響や照明のプランナー、もう何も作品には手出しできない状態で道具も車に積んでしまった美術家とかしか、たぶんそれはできないし、それでも脳内もしくは物理でフィードバック用のメモを取りながら見ていたら、それはどちらかというとやはり、作品創作をしている状態なのであって、作品を鑑賞しているわけではない。
だから千秋楽とかで、なにも作品そのものに関与しないと決めて、なんなら自分で自分をそういう状態にするために自分の公演のチケットを自分で取って金も払って、ただもう本当に鑑賞者として客席で観るようなことをしたら、自分で作った演劇を自分で観劇した、といえるのかもしれない。
だから、自分で作った演劇を自分で観れた人はすごく少ないはずだ。
そうして観たとき、自分で作った演劇を自分で観るというものすごい経験(これはまぎれもなくものすごい経験)の脳みその沸騰と同時に、やはり、消しきれなかった、または消すことを忘れた、もしくは消しても新たにまた生まれていた「だささ」にも煩悶するはずだと思う。
おれは、本当にそういう意味での「自分で作った演劇を観劇する」ということを何度かしたことかあるが、そのすべての観劇にものすごい覚せい剤を打たれたような体験があった。あれは他のなににも例えられない。演劇の悪魔だ。
ところで、逆に「だささ」が全部なくなればいいのかというと、おそらくそんなこともなくて、おれは一度、演劇作品及びその上演から「だささ」を極力完全排除できた場合どうなるのか徹底して夢想したことがあるが(実現は物理的に不可能なので)、そうして頭の中で想像で研いで磨き上げられた演劇は、もう演劇じゃなくなってた。
更新履歴⑫
2026年1月3日13:30
サイト作成者/五十部
サイト更新履歴に載せる量の文章ではない
サイト更新履歴はそういう場所じゃない
しかしもうこれだけ書いてしまったので、今はもう、
稽古が始まったらここに稽古日誌を書こうかとさえ思っている
サイト更新履歴に稽古日誌を書く意味はわからないが、サイト更新の履歴を載せるついでに、上演作品の創作の進み具合の更新(つまり稽古の進捗)履歴もここに載せていくということだから、筋は通っているのかもしれない
このサイトが何のためにあるかといえば、それは当然『宇宙論☆講座の日本一!ミュージカル桃太郎《同時上演・ミュージカルかき氷》』公演に関する情報を広く知っていただくためであり、それがこのサイトの存在意義のすべてだ
つまり『宇宙論☆講座の日本一!ミュージカル桃太郎《同時上演・ミュージカルかき氷》』公演に関する情報が更新された際には、このサイトの情報も逐一こまかく丁寧に更新できたらそれに越したことはないわけで、その更新される「公演に関する情報」というのは、今日、稽古場で誰かがラーメンを食べようとしてこぼした。みんなで雑巾を探したけどすぐには見つからなかった。というような情報であっても、情報は情報であり情報なのだから、公演に関する情報として更新し、履歴をここに載せていくのはありだ
つまり稽古日誌だ
おれは普段から文章をいっぱい書くタイプだ
人に見せるものも見せないものも、たくさん書く
例えば去年、2025年はたくさん演劇を観れた(それはもうたくさん。280本。幸せでした)のだけど、その1本1本全部かなり長文の感想文を書いている
ほぼ誰に見せるわけでもなく、自分の記録用だ
筆まめなのです
そして書き始めるとたくさん書く
かつ貧乏性(貧乏ではない。金はある)なので、たとえばX(エックス)のポストは全角140字ぴったりじゃないとできない
いま正月がヒマすぎる人は(いない、現代にそんな人は)、ヒマつぶしに調べてみてほしい
わざと一言だけで短く言うみたいな例外を除いて、おそらく、おれのポストぜんぶ140字だ
宇宙論☆講座のアカウントも、おれのアカウントも、臨時のアカウントも、おれが代筆している照明家のアカウントも、おれがやってるご当地ヒーローのアカウントも、おれのポストぜんぶ140字だ
更新履歴⑫
2026年1月4日7:00
サイト作成者/五十部
おれは、まだお正月をしているのだが、早くも世間からお正月のムードは消えつつある
ここまで大量に酒を飲みながら過度に酔っ払って三が日を過ごした
三が日が終わったということは、今年も100分の1が過ぎたということだ
2026年のおれは少なくともその100分の1を過度に酔っ払って過ごしていたことになる、いいお正月でした
残りの今年が一体どんな年になるのかはわからないが、過度に酔っ払いながらも正月行事は全部したので、いまは晴れ晴れしい気分だ
サイトも、いつの間にかこうしてできあがっている
以降、本番までの間、ここにいろんなことを書きます
サイト更新履歴の欄に書き込みをすること自体がサイト更新でありその履歴である
という、とんちのような仕組みのサイト更新履歴だ
とんちのようなというか、まごうことなき頓知(とんち)だ








